ジークフリートの遊ぶログ

そそっかしくて、キーボードタッチのミスに気が付かないことが多く、過去に投稿した記事も観直しながら編集しています。

西城秀樹を悼む 1


 
5月17日・木曜日。
昼の情報番組で、悲報が流れました。
あまりに突然で唖然としてしまい、その後の仕事がまともに手につかない状態となりました。
思い出すたび、切なくて何もやる気が起きなかったのですが、今日はだいぶ吹っ切れました。
長くなりますので、2回に分けさせていただきます・・・・・・
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西城秀樹・死去

ヒデキが死んだ……!?

子どもの頃から慣れ親しんだ芸能人の一人。
実は、初めて手にしたEP盤と呼ばれる45回転のドーナツ盤のレコードは西城秀樹だった。

ヒデキを初めて知った時の、あの日の自分が成長して今に至る姿と、ヒデキがデビューした時の10代から今に至る姿が、交互に走馬灯のように駆け巡り、これから、ヒデキのいないテレビの世界を想像する喪失感はとても大きかった。

翌日の新聞は、ヒデキのことを大きく取り上げている。

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拡大・・・

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・・・1面だけでなく

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・・・社会面にも
 

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・・・大きく取り上げられた。

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・・・やはり地元。号外も配られたようだ。

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・・・記者によるコラム欄もヒデキのことを言及している。

久し振りに、部屋の隅にあるラックからレコードを探してみた。

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・・・ヒデキのものは、シングルレコードを5枚、今ても大切に持っている。
一番最初のものは・・・

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・・・この「ちぎれた愛」

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・・・これが、親に初めて買ってもらった歌謡曲。45回転のドーナツ盤。
マンガ(アニメ・特撮)のレコードも欲しかったけれど、何故かこれを選んだ。
当時500円。

この前の曲「情熱の嵐」が大ブレイクしたのをきっかけに、西城秀樹、という歌手を強く意識したのだが、実は、ヒデキを初めて知ったのは、前の年の「チャンスは一度」の時からだった。

母が知り合いから頂いた招待券(おそらく優待券)で、広島県立体育館に公開録画のステージを観に行った時のゲストの一人が西城秀樹だった。

その時の記憶は今でもある。
その公開録画の司会をしたのは、当時まだRCC(中国放送)のアナウンサーだった柏村武昭(お笑いマンガ道場の司会者)。
出演者は他に、麻丘めぐみ伊丹幸雄歐陽菲菲だったが、私が知っていたのは、麻丘めぐみと、おーやんひーひー(小学生の見方)の二人だけだった。当時は既に人気があったらしいのだが、西城秀樹伊丹幸雄も知らない、歌謡曲に疎い子どもだった。その西城秀樹「チャンスは一度」を唄うと、会場の女性たちがキャーキャー叫んだのを目の当たりにして、凄い歌手なんだな、とビックリしたことが、ヒデキとの出会いだった。
また、ヒデキは広島出身で、私が生まれた頃に住んでいた町のすぐ近くに実家があり、引っ越さずにあのまま、あの町に住み続けていれば、ヒデキの通った中学に通っていた、と母親に聞かされ、西城秀樹のことは、勝手に身近に感じてしまうようになった。「情熱の嵐」が、会場の女の子たちの合いの手が広がる、という現象で大ブレイク。この頃からゴールデンの歌謡番組をよく視聴するようになったけれど、我が家にはEP盤を再生するプレーヤーしかなく、レコードを持とう、というモチベーションもなくて、ただテレビの前に立って、ヒデキの振付を真似していたものだった。
「ちぎれた愛」は、その年のレコード大賞にノミネートされ、大晦日までヒデキを見続けることが出来たし、ヒデキ自身も単なるアイドル
としてではなく、シンガーとして、大きく躍進するきっかけになったのではないだろうか。
モノラルのプレーヤーだったけれど、レコードを聴くことの楽しさを知った。だけど、前曲の「情熱の嵐」その前の「青春にかけよう」更には「チャンスは一度」も、レコード屋からは姿を消していて、手に入れることは出来なかった。
注文すれば、取り寄せてくれたのであろうが、当時の私はそんな入入手方法があるとは知らず「ちぎれた愛」以降の新曲は、とにかく早めに買いに行かなければならないな、と焦燥感に駆られたのだった。
 
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・・・「愛の十字架」
 
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…この「薔薇の鎖」は、ヒデキがマイクスタンドそのものを振り回すアクションを日本で初めて行いね私も箒を持ってよく真似をした。

このモノマネで「パクパクコンテスト」という素人参加型番組に応募しようかと思ったくらいだが、東京に連れて行ってくれるほどの力量を、親が持っている筈はない、と、あきらめていたら、同じようにヒデキのモノマネをしたある男が優勝。
彼はそれを機に芸能人デビューを果たした…それが川崎麻世だった。
川崎麻世のモノマネを見ると、自分の実力はまだまだだな、とあきらめがついた。

この「薔薇の鎖」のタイトルを練習したおかけげで、今でも“薔薇”の漢字は書ける。




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…この「激しい恋」の頃から、キャンディーズを始めとした女性アイドルにも夢中になる色気づいたガキになっていた。
月に500円だった小遣いも余裕がなくなってきた。

とうとう、次の「傷だらけのローラ」は、レコード屋から姿が消え、手にすることが出来なくなったが、次の…

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・・・「涙と友情」
 
この頃、キャンディーズに惹かれ、彼女たちのレコードを買えば、小遣いに余裕が無くなるので、このレゴードの購入が最後になってしまった・・・
 
※Yahoo!時代に作成した記事ですが、修正している途中で文字が消える、と言う現象に出くわしました。
出来るだけ元の記事の内容を思い出して再現したつもりですが、中途半端に締める結果となってしまいました。
Yahoo!のブログは、便利な反面、不具合が起きることが多かったです。