ジークフリートの遊ぶログ

そそっかしくて、キーボードタッチのミスに気が付かないことが多く、過去に投稿した記事も観直しながら編集しています。

キャンディーズ なみだの季節

 
本来なら、もっと早く記事にするべきだったけれど。
 
 「なみだの季節」
 
  イメージ 1
 
発売は1974年9月1日。
今回、この曲を記事にしたのは、発売から丁度40年。
ギリギリの時間になってしまった。
  
デビューが1973年9月1日だから、丁度一年後にリリースされたことになる。
シングル4枚目。
この曲がスーちゃん最後の真ん中となる。
 
1974年春「キカイダー01」「キューティーハニー」が終わり、再びドリフにチャンネルを合わせるようになった。
当時、土曜日の夜八時から、子ども向けの特撮・アニメは画期的だったが、それも二年で終了。
再び、ドリフが視聴率でグンを抜く事になる。
そして私はキャンディーズがコントの合間に唄うのを楽しみにしていた。
  
キャンディーズは、今まで明るい曲が続いてたのに、この歌は“別れ”の歌。
イントロのピッコロ?が耳に残るキャンディーズの中でも名曲に入る歌だと思っている。
 
しかしながら、このレコード。リアルタイムで購入したわけではない。
初めて買ったキャンディーズのレコードは「年下の男の子」。
 
これを機に一ヶ月~二ヶ月ごとにバックナンバーを揃えるのだが、確か、二枚目の購入だと記憶している。
一枚500円の時代・・・
 
実はこの曲、意味を掴むのに奥が深いのか、私自身が読みとれないのか?
ちょっと切ないラブストーリーとなっている。
  
  イメージ 2
            一番の歌詞
 
  イメージ 3
           二番の歌詞
  
先ず、初めて聴いた時、二番の歌詞で下線部分。
 
“人のいない喫茶店
 
これは、無人の喫茶店だと思っていた。
言葉は当時知らなかったのだが、マスターのいない“セルフサービス”の喫茶店だと思っていた。
無人の駅、とかもあったし、頭の中では、自分で湯を沸かして、自分で淹れる紅茶の喫茶店だと思い込んでいた。
そもそも、喫茶店なぞ入ることもないし、よく分からなかったのだ。
  
改めて、一番の歌詞・・・
 
“初めての道-”
 
と、あって
 
二番の
 
“街の隅でみつけた”
 
と、ある。
  
今まで、二人は色んな道を歩いたのだろう。
 
しかし、今回、二人にとって“初めての道”を歩いて、
 
都合のいい“喫茶店に入った、と解釈した。
  
※誰か、他の人がいると気まずいのか・・・?
 
ボキャブラリーに乏しかった子どもの頭の中なので、気まずいという言葉での分析は出来なかったが・・・
  
でも今、改めて聴くとやっぱり実に切ない。
  
一番
 
“そして彼と私は
    さよならすることだけを”
 
“彼”
 
を主語に持ってきて、その後に
 
“さよならすることだけを”
 
と、くる。
 
別れは確実・・・
  
“私はあなたが好きでした”
  
二人は相思相愛ではなく“私”の一方通行なのか?
  
“季節が変わると”
 
この歌詞を、バックのランちゃん、ミキちゃんのあとで、
 
(さよなら)
 
と、スーちゃんの、心の声が続く。
 決して
『私はあなたが好きでした』
 
とは、告白していない。
  
“彼”を主語に持ってきているのに、彼は“私”を恋愛の対象とは思ってないのだろうか?
 
“彼”の部分を抜いた
  
“そして私は さよならすることだけを”
 
独白を全面に押し出した、この歌詞の方がしっくりとくるのでは、と思うのだが・・・
 
二番の歌詞を改めて・・・
  
“何も言わずに熱い紅茶で乾杯しましょう”
  
どちらがイニシアティブをとっているのだろう?
  
“だけど彼と私は 前のように友達に
        もどりたくてももどれないのに気がついてます”
 
二人の関係はそもそも友達同士だった。しかし、何があって別れるのだろう?
 
卒業?引っ越し?
 
もっと奥深い意味があるのか?
 
そして
 
“私はあなたが好きでした”
 
と、本音がくるのに
 
“言葉のかわりに”
 
と、裏腹に
 
(さよなら)
 
を心の中で言っている。
  
友達にも戻れないとは、二人の間にどんなことが起こったのだろう?
“寒い季節冬)になると別れが来るのは何故だろう?
 
離れていても、友達同士の関係は保てないのか?
 
うーん・・・
 
私の読みとりが稚拙なんだろうか?
 
もしかしたら・・・
  
“私”
 
は、重い病気で余命あと僅かなのかも。
 
そして、寒い季節になる頃“私”自身が遠くに行ってしまう。
それは“彼”も承知している。
 
友達同士だったけれど、この世に彼が一人残されれば、二人の間の友達関係が終わるのも頷ける。
彼一人の、気持ちとしての友情は残るかも知れないが。
 
改めて、一番の歌詞の最後。
 
“ふたりの気持ちも 冷たくなるのね”
 
冷たくなる、と断定はしていない。
 
“彼”の気持ちが“私”から離れていくかも知れない、と寂しさを感じている。
 
そして“私”自身も、いわゆる物理的に冷たくなる。
 
そもそも“彼”自身
“私”に好意を寄せられていることを認識しているのではないたろうか?
“私”の命が、短いことも意識しているのかも知れない。
 
 
改めて、二番の歌詞・・・
 
“何も言わずに熱い紅茶で乾杯しましょう”
 
二人は無言。
最後のデート(私にとって)だが、
これがにぎやかな喫茶店だと興醒めするシチュエーションである。
 
“ふたりは泪で”
 
“彼”も泣いている。
 
周りに人がいない場面だと想像すると、正に二人だけの世界になる。
 
そして
 
“まるで落ち葉が散るような…
 
命を“落ち葉”と比喩しているのではないだろうか?
 
実は“彼”“私”の気持ちを知っていて気付かないふりをしていたのではないだろうか?
“私”は、それをも理解したうえでの歌詞だと思えば・・・
  
“私”が心おきなく命を全う出来るよう配慮した“彼”の優しさだったら“友だち”を越えた究極の“愛”だと考えずにはいられない。
 
この曲がスーちゃん最後のリードボーカルだけに、この結論に達すると更に切なくなる。
 
・・・以上、勝手な解釈でした。